女性の社会進出(社畜化)で「子供の命を守れるのは親しかいない」の基本原則が失われる

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こんにちは。僕たち夫婦には子供がいないが、もし子供ができたなら「全てを捨て、私の全てを子供の教育に使う」と言い切る妻をもつ雲藤テルオです。
 
 
もちろん妻の言う「教育」とは、英語などの習い事でも、受験のことでもない。
 
命のことである。
 
自分の子供の命を他人任せにしないということである。
 
我が妻ながら、実にあっぱれな変態的非社畜思考に感心する。
 
 
だってお金がなければ子供育てられないじゃん
 
女性の社会進出なんて当たり前でしょ
 
 
だがしかし、いつの時代もお金がなければ生活できないし、今の時代、男女平等は当たり前の世の中だ。
 
では一体、お金を稼ぐために、男女平等のために、そのために “邪魔” となる子供はどうするのか。
 
お金と男女平等を手にするためには、他人に子供の命を預けるしかない。
 
つまり、
 
「当たり前の世の中の仲間入りをする」=「子供の命を他人任せにする」
 
なのである。
 
 
これは本当に、あなたが自ら考えた結果、望んでしていることなのか?
 
誰かに「この選択肢しかありませんよ。普通はみんなそうしてますけどね。」と言われた結果、その流れに乗っかっただけなんじゃないんでしょうか?
 
 

女性の社会進出で失われるもの

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女は家庭を守り、男は外で働く。
 
 
今どきこんな古いことを言ったら笑われるし、下手をすれば「女性差別」と叩かれる言葉だが、なにを隠そう、これは昔からの基本原則だ。
 
そして、差別なんて言葉がなかったずっとずっと昔から “感覚” で行われていることには、何らか意味がある。
 
その意味を探り、理解し、考えて社会進出を選ぶ女性が増えれば、少子化はますます進むことになる。
 
もしくは女性の社会進出が減り、子供が増える。
 
このどちらかだ。短期的に税収増と人口増の両方を得ることは不可能だ。
 
 
もし仮に、
女性にも働いてもらって税金も納めてほしいが、子供も産んでほしい。

そんなマーケティングでお願いします。

こういう仕事の依頼が入ったなら、僕ならばこういう戦略で最大の成果を得ようとするだろう。
 
 
 
人間の基本原則なんて女性に考えさせたらもう終わりなので、女性活躍社会のブームをつくり、それに乗っかればいいだけの流れをつくり、女性には早めに社畜になってもらう。
 
女性が働いていても子供を育てやすい環境を整えることにより説得力を増すことで更に、基本原則なんて考える隙を与えない。
 
考えさせたらマジで終わるから。
 
子供を育てやすい環境戦略とは《子供の命を他人に預ける》ことで女性を社畜化する。
 
幸い日本なら “学校は神” なので、他人に子供の命を預けることには抵抗も疑問も抱かないだろう。ベースとなる社畜思考は既に義務教育で教育済みだ。あとは実行キーを入力するだけでいい。
 
そして利益の少ない “子供の命が犠牲になる” 少数派対策は排除する。
 
小池百合子炎上騒動で経験済みなので「排除」という言葉には気をつけ、“そっちの対策も早急に検討する” という感じで乗り切れる。
 
社畜の多数派の流れさえ作ってしまえば少数派を無視しても批判よりも利益の方が上回る。
 
①多数派の世論をつくり
②少数派を排除し
③短期的に得られる最大の成果を出す
 
という戦略だ。
 
 
 
たまたまどこかの国の戦略と被ってる気もするが、まぁ、気のせいか。
 
 
 
女性の社会進出により最も失われるものとはズバリ子供である。

 
子供の教育
親の愛情
子供の命
 
いろいろあるが、そもそも「子供を産むかどうか」でまず迷うだろう。
 
女性活躍社会で失われることが確実なこういう「子供不足」という少子化への対策として、子供を育てやすい環境を整えようと国もあれやこれや対策を打っている。
 
だがしかし、「子供を産みやすい環境を整えよう」ということは皆考えるようだが、子供の命を失わせない環境を整えよう」とは、まだ考える人が少ない。
 
考えている人でもそれは、女性の社会進出ありきの対策のため、65点の対策しか打てない。
 
女性の社会進出に逆行するような対策など言っても自分が損するだけだ。誰も尾木ママや坂上忍に叩かれたくはない。
 
 
つまり何が言いたいのかというと、子供の命を他人に任せた時点でそれなりの覚悟を決めなければいけないし、もしそれで泣きながら子供の写真を手に記者会見を開いても、そういう少数派への対策は出てくるのが遅い。
 
それよりも、失われた子供の命は戻っては来ない。
 
 
そういうリスクは女性の社会進出で確実に増すということだけは、親となる人間は知っておかなければいけない。
 
 
国はそんなリスクは教えてはくれない。
 
 

子供の命が失われる確率を減らすには

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例1)子供の事故死の確率を減らす

 
この前、この前というか、年に何度も耳にするニュースだが、散歩中の園児の集団に車が突っ込むという事故があった。
 
テレビのニュースを見ている限りでは、引率していた保育士さんに問題はない。ただ信号待ちをしていただけ。
 
加害者の運転手にも殺意があったわけでもなく、飲酒運転でも、若者の危険運転でも、免許返納と言われる歳でもなかった。
 
前方不注意の車を避けようとした他の車が歩道に突っ込んでしまい、何の落ち度もない園児の命が失われた。
 
 
僕は法律の知識は薄いが、たぶん、加害者の罪はそれほど重いものにはならないだろう。
 
そして被害者の遺族は一生、加害者や園を恨むか、誰を恨んでいいかもわからずにずっと苦しみ続けるのだろう。
 
もちろんそれが保育士ではなく親がその場にいたとしてもこういう事故は避けられないのかもしれないが、少なくとも「もし自分が子供の側にいれば助けられたかもしれない…」というモヤモヤとした後悔はないだろう。
 
 
このリスクを避けるには、子供は自分で育てること。
 
そして現実的には、園側の少ない保育士で園児を外に連れ出し散歩させることを止めること。
 
 
今のところ「園児を散歩させるのはどこでもやってる普通のことだし教育の一環として必要だ」との意見が大半で、「散歩は止めるべき」とう意見は僕はテレビではまだ聞いていない。ネットでは言われているようだが、だいたいこういう意見は叩かれている。
 
もちろん散歩をさせた方がいいかさせない方がいいのかと言えば、そりゃさせた方がいいが、他人に子供の命を預けるのであればできる限りリスクを減らすことを親は考えるべきだと思う。
 
他人に自分の子供の散歩をさせてほしいのであれば、命のリスクを覚悟すること。
 
その覚悟がないのであれば、女性の社会進出という社畜思考を捨て、子供は自分で育てること。
 
 
「散歩をさせることは教育上必要なこと」と言ってる人は正に社畜的思考で、子供を散歩させて交通ルールを教育するのは親がするものという基本原則が抜けている。
 
国の “女性社畜化政策” が成功しているということだろう。
 

例2)子供がイジメられる確率を減らす

 
子供がイジメを苦に自殺するというニュースも年に何度も耳にする
 
その度に学校側の対応の悪さという問題がクローズアップされるし、僕もテレビを見ていて実際に問題はあると思う。
 
その一方で、被害者遺族の親への批判は無い。「自分の子供の異変に気づかないのか」という批判だ。あっても言った瞬間炎上する。
 
僕としては、そこへの批判が無いということに、日本人の社畜性を感じる。
 
 
なぜこういう批判が出ないのかと言えば、それは「被害者家族なのだからかわいそうだ」ということともう一つ、学校が責任持って対応するべきだ」と誰もがそう思っているからだろう。
 
なぜ誰もがそう思っているのかと言えば、それは今の世の中が女性活躍社会で夫婦共働きが当たり前だからだろうし、何よりも日本人にとって、学校は神 ”であるべき” なのだ。
 
子供は学校に任せ、学校が責任をもって子供を教育し、学校が責任をもって子供の命を守らなければいけないのが “当たり前” という考え方くる、社畜精神だ。
 
 
幼児教育の無償化や高等教育費の負担軽減というものが多くの税金をかけて始まろうとしている。
 
これは正に、イジメを受けて自殺する少数派よりも、普通に成長する多数派に対しての政策だ。
 
できるだけ多くの学生に高等教育を受けさせることによって貧困層も、そして女性も今よりも更に社会進出が進み、国に入る税金が増える。
 
 
イジメによる自殺者を減らすためには、教育の無償化ではなく、例えば学校のクラスの「20人学級」といったものにお金を使わなければいけない。
 
先生1人が40人の命を守ることなど不可能なのだから。
 
クラスが20人になってもイジメが0にはならないだろうが、少なくとも今よりはクラスの不穏な空気に先生も気づきやすくなるだろう。
 
 
こういう、子供の命を守る政策をとらずに、単に子供を産みやすい政策をとるのは正に、多数派政策であり、そしてその戦略が見事に成功している。
 
 
少数派は度々表に顔を出すが、すぐに消え失せる。
 
 

事故は運だが、確率を下げることはできる

 
もし僕が政治家ならば、20人学級や高齢者の免許返納義務化といったような政策を掲げ制度作りに力を入れるだろう。
 
だが僕含め、多くの日本人は政治家ではない。
 
政治家は国の将来を考えるが、政治家ではない僕達は家族の将来を考える。
 
自分の家族を守るために「高齢者は免許の自主返納を!」「20人学級を!」「ガードレールを!」「ホームドアを!」と声を上げている間に、子供は成人になり、運が悪ければ死ぬ。
 
車の自動運転技術を待っていても、いつになるかわからない。
 
自動運転になったらなったで機械には “エラー” が発生するものだし、事故は高齢者だけが起こすものでもない。
 
事故やイジメは運もあるが、親が社畜精神を変えることで、子供が “事故る” 確率は下げることができる。
 
 
国はそんな “マイナス” なことは教えてはくれない。
 
 

女性が社会進出し子供を他人に託した時点である程度覚悟を決めなければいけない

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どっかの医者が言っていたが、どんなに小さな手術であっても身体にメスを入れた時点で命を失うリスクは常にあるのだという。
 
子供の命もそれと同じだろう。
 
他人に子供を託した時点で、子供の命が失われるリスクは確実に増す。
 
 
国の政策は多数派政策だ。「多数派」というものは誰かのマーケティングによって操作されるもの。
 
自分の家族は最後までその多数派の中に存在し続けられるだろうか
 
万が一自分の家族がその多数派から漏れてしまったら、誰かが助けてくれるのだろうか。
 
 
「原発は安全だ」というマーケティングにより誰かに操作された多数派が嘘だとバレ、その多数派から漏れてしまった少数派の被爆者は、どうなったのか。
 
誰かが助けてくれただろうか?
 
「原発は安全だ」が嘘だとバレてもなお、「その原子力で作られた電気お前も使ってんじゃん!」というような少数派への攻撃が、誰にも指示されなくても国民が自主的に行っている。
 
 
国の社畜化政策の見事な成果と言えよう。
 
 
女性の社会進出という誰かに作られた多数派の波に乗っかり他人に子供の命を託し、万が一子供の命が失われ多数派から漏れ少数派になってしまった場合、誰かが助けてくれるのだろうか?
 
政府がドラゴンボールを7つ集めてくれるだろうか?
 
ドラゴンボール大臣もドラゴンボール省も、確かこの国にはなかったと思うので、多分無理だろう。
 
 
「女性の社会進出」とは立派で素晴らしいが、国の言う女性活躍社会というものに “今そういう時代だから” ということで考えることをせず何となく流れに乗っかるのは正に、社畜的思考だ。
 
子供を他人に任せることで生ずるリスクを事前に考えて決めるべきだ。
 
そして子供を他人任せにするという選択をするならば、ある程度覚悟を決めなければいけないと思う。
 
 
こんなマイナスなことは国は絶対に教えてはくれない。
 
 
僕が総理大臣でも言わないだろう。毎日目にするトイレの壁に
 
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という貼り紙をして口を滑らせないよう気をつけるだろう。
 
 
よって、自分と自分の家族の命を守れるのは自分しかいないということだ。
 
脱社畜思考というのは、簡単なようで意外と難しいが、家族の命を守りたいのなら脱社畜するしかない。
 
 
 
今、近所の公園でこの記事を書いているが、保育士と園児の集団(保育士2人、園児10人くらい)が今まさに、目の前のガードレールの無い横断歩道で信号待ちをしている。
 
事件があったばかりという中でのこの行動を「社畜」と言わずして何と言うのだろう。
 
そして子供をその園に預けている親はなぜ「散歩をさせないでほしい」と言わないのだろう。
 
不思議で仕方がない。
 
 

変態的に心配性な僕の日頃の行動

 
 僕の心配性は変態的だ。
 
 
 
僕は変態的に心配性なので、夜中一人で人気のない真っ暗な住宅街を歩くとき、前や後ろから人の気配を察知すると、ケータイで《110》と押してあとは通話ボタンを押すだけという状態で備えていた。
 
同じように、夜中の女性の一人歩きにおすすめなのが、嘘でもいいのでケータイで誰かと通話しているフリをしながら家まで歩くようにすると、誰かと通話中は変態は襲いにくいのでおすすめだ。
 
僕も若い頃は彼女に言ってやらせていた。
 
 
 
僕は変態的に心配性なので、信号待ちをするときは電柱などの障害物を車道と自分の間に挟んで立つようにしている。
 
電柱があろうがなかろうが車は突っ込んでくるが、命が失われる確率は確実に下がる。
 
 
 
僕は変態的に心配性なので、ホームドアのないホームで電車を待つときは先頭には立たないようにしている。
 
誰かに背中を押されたらと思うと怖くて一番前には立てない。
 
 
 
僕は変態的に心配性なので、歩道を歩いているとき「前から走ってくるあの車が自分めがけて突っ込んできたらあの隙間に入ろう」というように、常に車から逃げ込む隙間のアテをつけながら歩いている。
 
意識してやっているわけではないが、僕の昔からの変態的な性格だ。
 
 
 
それでもこんなことをしても確信犯には敵わないだろうが、事件事故に巻き込まれる確率は、確実に減る。
 
よかったら参考にしてみてほしい。
 
 

 
 
 
 
 
 

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